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献上図式(現代の図式集)

詰将棋関連本は分類しますと「ドリル」と「作品集」と「図式集」の三種類に別れると言われています。
普及の面から考えますと初心者向けの「ドリル」が一番重要に思いますが、「作品集」「図式集」は詰将棋ファンや詰将棋マニアの世界だけではなく、普及の面からも大切だと思います。
  私も将棋を覚えた後に詰将棋の存在は知っていましたが、長い間どういうわけか詰将棋とは15手詰が手数の上限と思い込んでいました。市販の詰将棋集はどの本も15手詰が一番長く、それより長い手数の詰将棋には出会ったことがありませんでした。そんな中、古典詰将棋の33手詰に驚愕した記憶があります。
内藤國雄さんは子供時代に「将棋図巧」に感動してその第一番を自作として披露したことで「國雄は天才少年」と評判になり、プロ棋士への道が開けたというエピソードがあります。少年時代に名画名曲に出会うことがその後の人生に大きなきっかけになる可能性を示した話です。
「詰将棋ドリル」「詰将棋作品集」「図式集」の明確な定義はわかりませんが、それぞれが普及に大きな意味を持っています。「図式集」は出版社の商業ベースには乗らないらしいですが、その役割は決して小さくありません。「文化」とは経済中心の社会とは別次元にあるものです。しかし、長い目で見れば人間社会の発展には欠かせないものと思います。

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いよいよA級最終日

 まもなくA級順位戦の最終日です。新聞やテレビでも「将棋界の一番長い日」として盛り上げています。
 一番の注目はもちろん羽生さんが2年連続の挑戦者になれるかどうか?確率的にはかなり高いのですが、羽生さんとしては橋本さんを破ってすんなりと自力で決めたい。
 二番目は谷川さんの残留できるかどうか!将棋連盟会長となってすぐに陥落するわけには行きません。また谷川さんにはB級1組で戦うという選択は考えにくい。かと言って引退するには「まだまだやれる」という自信と「やり残し感」が強いと思います。もしA級陥落ならぱおそらくフリークラスに転出でしょう!つまり名人位はあきらめて少し気楽に他のタイトルを奪取に照準を合わせるわけです。これは米長さんの選択と同じです。なお、ご本人は落ちたらなんて全く頭にないと思います。
 三番目の注目は深浦九段のA級残留なるか!という課題です。深浦九段は今回が四度目のA級です。過去において一度も残留ができませんでした。タイトル獲得もある実力者深浦にしてA級残留が厳しいという何ともA級順位戦の凄まじい世界を表しています。B級1組で優勝もしくは準優勝しなくてはA級に昇級できません。過去に四回もA級昇級というのは過去に例がない大記録ではないでしょうか?
 A級に残留するには勝率50%近い成績を残さなければなりません。またB級1組でA級に昇級するには8割前後の勝率が必要です。深浦さんのA級復帰回数の大記録も素晴らしいですが、そこから伺い知れるのはA級残留の厳しさです。

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読売夕刊の詰将棋講座

本日の読売新聞夕刊に大島映二七段の「逆から詰まそう詰将棋講座」の第四回です。毎週火曜日の夕刊に連載されました。逆算のやさしい講座でした。今回にてお終い?

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献上図式(才能と血筋)

二代伊藤宗印一家は5人の息子達がすべて家元棋士というとんでもなく天才家族でした。さらに詰将棋の実績から見ますと父親の宗印が「将棋勇略」を献上し、さらに成らず百番で有名な「将棋精妙」も発刊しました。次男はあの「無双」の宗看。四男は大橋家に養子に入って八代大橋宗桂を名乗った伊藤印寿。名人にこそなれませんでしたが「将棋大綱」を献上していますから、立派な指し手として大橋家を継ぐ実力があったかと思います。五男は「図巧」の看寿。一家で江戸期を代表する詰将棋500番を残すという偉業でした。
さてこのようなことから将棋の才能はやはり血筋なのでしょうか?それとも生まれ育った環境に恵まれていたからでしょうか?生まれながらにして名人になれるならまだしも家元の中での跡目争い、御三家の争い、在野棋士の挑戦を考えますと名人を目指すことの苦労は並大抵ではなかったと思います。才能に恵まれ、好きな道というのであれば幸せな人生ですが、無理矢理に将棋一筋の世界に引き込まれた人の悲劇も少なからずあったに違いありません。また全く肌が合わず将棋の道には進まなかった人もいたと思われます。魚屋を継ぐとか八百屋を継ぐならば引き継ぐべき資産や得意先もあったりして、ある程度目算も立つかもしれませんが、芸事の世界は一からの才能ですから、ものになるかならないか博打のようなものと思います。(つづく)

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献上図式(争い将棋、将棋のイメージ)

 「争い将棋」とは何であったのか!家元を代表して戦う争い将棋。負ければ野に下って将棋指しとは名乗れなくなるかもしれません。幕府の庇護を失うことにより、名誉も仕事もすべてを失うわけです。その心労はいかばかりでしょうか。この心労は現代のプロ棋士の皆様の置かれた立場にも共通していると思います。
 幕末から明治維新になり、将棋所は廃止され家元は後ろ盾を失いました。将棋界の暗黒時代でした。腕に自信のある元将棋指し野に下り賭け将棋を生業にしました。将棋が賭け事としてマイナスイメージが定着してしまった背景にはこのような経緯に一つの原因があると思います。その後関根十三世名人の英断にて名人位の世襲制が廃止され実力名人戦が始まります。新聞社が新たにスポンサーとなりました。
 戦後の長い年月。経済成長とともに新聞社と将棋界との緊密な関係がお互いに大いなる発展を遂げました。そしてネット社会となった今、新聞社も将棋界も岐路に立たされていると思います。
またもともと江戸期の「将棋」は庶民の遊びではなく、武士や公家、僧侶、裕福な町人達の「優雅なたしなみ」ではなかったかと思います。江戸後期から明治大正にかけて将棋界の暗黒の時代が将棋のイメージを大幅にダウンさせました。
 しかし、平成の今、将棋のイメージは明らかに変わりつつあります。プロ棋士の皆さんや将棋関係者の努力の結果と思います。それだけに将棋連盟とLPSAとの一連の騒動が将棋界の歴史上の汚点として残らないように祈らずにはいられません。将棋ファンはプロ棋士の勝負師としての潔さ、美しくも厳しい盤上での戦いを期待しています。

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本を読む子供たち

最近、通勤ルートを大幅に変更しました。混雑の厳しい新快速は定年前の身には結構堪えます。そこで時間はかかりますがゆっくり走る京阪電車に変更しました。
 そして新しく見た光景です。 京阪電車に藤森(ふじのもり)という各駅停車と準急が止まる駅があります。この駅で小学生がどっと降ります。私鉄で通うのは私立小学校(京都聖母学院小学校)に通う子供たちのようです。この子供たちが感心なことは電車の中で本を読んでいる子が多いのです。最近のサラリーマンは通勤電車で平気で漫画を読んでいます。この小学校の教育方針として「本を読む楽しみ」を教えているのではないかと思います。

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献上図式(将軍家治の詰将棋)

十代将軍徳川家治は八代将軍の吉宗おじいちゃんから大変可愛がられて育ちました。老中田沼意次に政(まつりごと)を任せて趣味の世界に生きたと政治家としては歴代将軍の中であまり評価されていません。しかし、田沼意次は悪徳政治家のように言われたりしましたが、政敵を作りながらも思う存分手腕を発揮したのは有能だったからでしょう。そしてその田沼意次の才能を見込んで重用し、さらに支え続けた家治の功績は称えられるべきと思います。
さて徳川家治は詰将棋百番「将軍攻格」を発行しました。作品の内容につきましては他の献上図式と比べて少々劣るかもしれませんが、将軍自らが詰将棋百番を作成…。これほど世の中にアピールするエピソードは思い当たりません。原本は豪華金泥本で内閣文庫に今もなお残っています。献上図式を受け取る立場の将軍様が自分で作った「詰将棋百番」をどこの誰に献上すべきか悩んだかもしれません。(つづく)

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献上図式(谷川さん「月下推敲」を奉納)

 昨年の名人戦第四局は静岡市にて行われました。昨年は初代大橋宗桂が徳川家康から将棋所として俸禄を受けたという1612年から400年とのことで「名人400年祭」として様々な行事が各地で行われました。名人戦静岡対局もその一つでした。森内名人と羽生挑戦者さらに立ち会いの谷川さんも揃って久能山久遠寺の徳川家康の墓参りをしました。そして家康の墓前に谷川さんの図式集「月下推敲」を奉納しました。これは江戸期の八世名人九代大橋宗桂が1800年に「将棋舞玉」を将軍家治に奉納して以来、実に200年ぶりの献上図式の奉納と話題になりました。

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献上図式(衰退の謎)

1800年代、江戸期の詰将棋は衰退期に向かいます。九世名人大橋宗英は「詰物なんぞ、君仲でも作る」と発言して名人なのに献上図式を廃止してしまいました。このことから、大橋宗英は江戸後期の詰将棋衰退のA級戦犯として語られます。家元の本筋は将棋所を守り抜くこと…とプロ棋士としての本望を貫いたのだと思います。江戸期の歴代名人の中でこの大橋宗英と鬼宗看と言われた三代伊藤宗看の二人が指し将棋の実力で双璧と評価されています。
 さて君仲とは家元棋士の桑原君仲で九世名人八代大橋宗桂の弟子でした。棋力四段と言われています。「将棋玉図」と「将棋極妙」の二百番を残しています。大橋宗英は君仲を軽視したように伝えられていますが、実際には「君仲の詰将棋は素晴らしい!かなわんわ~」と褒め称えただけだったのではないでしょうか?そして本音は「歴代献上図式や君仲に劣るような詰将棋を献上しては名人の名前に傷がつく。ワシは献上図式はやめとこ」だったからでしょう。
 そんなわけで1800年代の中頃、将棋所も巷の詰将棋作家も衰退に向かいました。そして幕末とともに将棋所も廃止され、家元はスポンサーを失いました。将棋も詰将棋も暗黒の時代に入りました。(つづく)

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献上図式(看寿の図巧)

詰将棋の双璧といえば『図巧』と『無双』です。難解を極める『無双』に対して看寿の『図巧』は華麗、精緻なとと評されます。江戸期の宝暦年間から昭和まで看寿の『煙詰』は創作不可能とされてきました。また611手『寿』の長手数記録も昭和まで破られませんでした。盤面王様のみの『裸玉』のアイディアも看寿の発案です。
看寿は次期名人と指名されていましたが時の名人が長生きしたこと自分自身が42才で早世したことで結局名人になれませんでした。
昭和となって『看寿賞』が制定されて毎年、素晴らしい詰将棋が表彰されています。作品の内容としては『図巧』を凌ぐと言える傑作も数多く誕生しています。しかし、250年以上前の看寿の功績を何人も永遠に超えることはできません。(つづく)

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