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いよいよ王位戦第七局

 広瀬王位に羽生さんが挑戦している王位戦第六局。昨夜、神奈川県鶴巻温泉陣屋旅館にて行われ、羽生さんが勝って3勝3敗のタイに持ち込みました。そして決戦の第七局は再び同じ陣屋旅館にて9月12~13日に行われます。陣屋旅館にとって願ってもない展開になりました。
 羽生さんにとってこの対局は大山さんのタイトル獲得80回というとてつもない大記録に並ぶ歴史的な対局です。羽生時代がまだまだ続くのか若い世代への世代交代が進むのかどうかの岐路でもあります。

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おすすめ本<その1>

 千田琢也著「人生を最高に楽しむために使ってはいけない100の言葉」(かんき出版)は若い人が普段使っている言葉に潜む心理を鋭く指摘しています。
 ビジネス上のみならず日常生活でも気をつけて使わないようにというお説教の本です。
 しかし、装丁が名言集の如くで並んでいる名言?が若者言葉ですので受け入れやすい。また若くしてリーダーとなった若者を想定してマネージャーの立場の心構えまで言及しています。
 その中の一つ「金がない」。「金がない」という人は「どちらはかと言えば欲しいもの」に金を使い、「どうしても欲しいもの」に対する備えがないと切り捨てています。耳が痛いです。
 同著者「死ぬまで仕事に困らないために20代で出会っておきたい100の言葉」もおすすめです。「えっ、ボクがやるんですか?部下に教えたい社会人のものの言い方100」。別の著者のそっくり似た本もありました。

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おすすめ本<その2>

 本の題名だけで読みたくなってしまうことがあります。小林公夫著「勉強しろと言わずに子供を勉強させる方法」(PHP新書)はまさにそんな感じでした。
 出版不況が続く中、気を引く本の題名のつけ方で売れ行きが違うと思います。また最初に少なく印刷しておいて大好評につき緊急重刷なんて作戦もあるのでしょう。
 さて自分の子育ては随分前に終わっていますが、このテーマは孫世代に将棋ファン拡大を目指すに重要です。

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おすすめ本<その3>

 藤原正彦著「日本人の誇り」(PHP新書)。著者は新田次郎氏の次男です。専門は数学者なのですが、「国家の品格」がベストセラー。専門外の稼ぎが多い気がします。
 太平洋戦争後に戦争に突き進んだ日本政府や軍部だけでなく日本全体が自らを全否定してすべてを謝ってしまいました。「ポツダム宣言は条件付の降伏であって無条件降伏ではなかった」と著者は言っています。にもかかわらず、言論統制を行ってあたかも無条件降伏のように日本を欺いた。終戦直後に朝日新聞は原爆投下や一般人への爆撃を非難した記事を載せた。
 ところが米軍により48時間の発行停止処分を受けています。戦時中は軍部による言論統制。終戦後は米軍による言論統制があり、日本のマスコミは寂しいものになってしまった。さて著書は本書の中で日本人を海外の人々がどのように捉えていたかを数多く紹介し、日本人が「本来持っていたはずの失ってはならないもの」を力説しています。

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おすすめ本<その4>

 升田幸三著「名人に香車を引いた男」中公文庫刊。(当初は朝日文庫から出版)
戦後のGHQと升田先生のやり取りは面白い。GHQの日本潰しは露骨でした。将棋も日本文化として潰しにかかった。将棋は取った駒を持ち駒として使う。チェスは取った駒は再生されません。GHQは「将棋は捕虜虐待で悲人道的」と非難した。升田先生は「将棋こそ駒の働きを生かして再生する。最高の人材活用」と反論しました。
 またチェスや囲碁は戦いが終わると白と黒に別れて収納される。しかし、将棋に白も黒もなく一つの駒箱に収納される。これこそラクビーの「ノーサイド!」と思います。
 日本人は失われてしまった本来の強さ、潔さ、正義感、憐憫の情を次世代に伝えて行かなければならないと思うのです。戦後、日本人は自分達の歴史を否定するように教育されてしまった。本来歴史から学ぶべきことは多いはずです。

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湯田中温泉腰痛療養記

1.腰痛療養
 腰痛の療養と言い訳しながら北信州湯田中温泉に行って参りました。東京から長野まで新幹線で1時間半。さらに長野電鉄で北東に小一時間。終点が湯田中温泉です。長野電鉄の特急は小田急ロマンスカーの車両や成田エクスプレスの車両を再活用、懐かしさも郷愁を誘います。

2.まずは善光寺参り
 長野と言えば善光寺。そして善光寺と言えば「牛に引かれて善光寺参り」という説話があります。信仰の薄かったおばあさんが牛の化身に善光寺まで連れられて信心深くなったという話です。
 俗世間にどっぶり浸かって信仰心を失っている現代人は宿坊に泊まって精進料理、朝修行もいいかもしれない。

3.栄枯盛衰の温泉街
 湯田中温泉の近辺にはあちらこちらに温泉があります。まずは渋温泉。湯田中温泉から車で5~6分。もともと湯田中温泉の便利さには勝てず、宿の数でも賑わいも湯田中温泉が席巻していたらしい。
 ところが最近では渋温泉が湯田中温泉を完全に追い抜いたようです。湯田中温泉は歯が抜けたように廃業した旅館や飲食店が多く、渋温泉は密集した温泉宿に明りが灯っていない宿は見当たりません。
 渋温泉の温泉街全体のまとまりや団結が逆転の要因であるように思います。「温泉宿の一軒一軒が部屋」という精神が行き届いているようでした。
 次に角間温泉ですが、こちらは渋温泉よりもさらに不便です。林芙美子記念館がひっそりとありますが、温泉街という雰囲気は全くありません。商売気のない宿に外湯が3軒ほど。それだけに宿のお女将さんの人情が厚い。原田泰治の絵が飾ってあるのもいい。
 なお、日本秘湯を守る会の「角間温泉岩屋館」は上田市にあって眞田一族の隠し湯という触れ込みです。この角間温泉とは別です。角間温泉は温泉街として栄枯盛衰とは別次元で生き延びています。

4.渋温泉の金具屋
 渋温泉金具屋は昭和初期の建築物を今に伝えており、木造五階でレトロな雰囲気を漂わせています。
 スタジオジブリのアニメ「千と千尋の神隠し」の「油屋」のモデルとなったと玄関に書かれていました。山形県銀山温泉の「能登屋」にも同様の話があります。むむむっ!全国各地にありそうです。

5.地獄谷温泉
 最後に渋温泉の奥にある地獄谷温泉。知名度は全国区です。お猿さんが入浴しているので有名です。今はお猿さんが温泉に入っているのは全国各地でみられ、ここ地獄谷温泉の専売特許ではないようです。
 猿の入浴から「100匹目の猿」の話を思い出します。この話は芋を洗って食べる猿がある一定数を超えると時間的空間的な隔たりを超えて伝播するというものです。「温泉は気持ちいいよ!」って誰も猿に教えていないし、長野の猿は東北の猿に教えていない。それなのに東北の猿も温泉に入るようになるという話です。興味深い話ですが賛否両論があるらしい。

6.外湯について
 小粒な外湯が特徴です。湯田中温泉に10以上。渋温泉には9つ。角間温泉には3つの外湯がありました。これまでの外湯のイメージは「安くて観光客も自由に入れる」「地元の人も普段から利用する」でしたが、こちらは自由度が少々低いです。
 宿泊した旅館で鍵を借りて近くの外湯に入浴します。たくさんの外湯には入れないシステムです。つまり外湯はそれぞれその地域の住民や施設の共同管理となっていて観光客にオープンになっていません。温泉マニアにはそこがまた魅力かもしれません。

7.桃山風呂
 宿泊したのは湯田中温泉では高級ホテル<よろづや>の対面に位置する<湯楽庵>。<よろづや>は創業200年の歴史を誇ります。豪壮かつレトロな建物の桃山風呂がセールスポイントです。湯楽庵のお客様はこの桃山風呂に自由に入れるのがうれしい。

8.眞田家ゆかりの地「松代」
 最終日に眞田家ゆかりの地「松代」に行きました。正確には長野市松代町です。あの川中島も長野市内です。大阪夏の陣で最後まで徳川家と戦かった眞田幸村が有名です。
 松代城は1622年に眞田幸村の兄眞田信之が沼田城から移封されその後幕末まで250年間、眞田家が徳川家の信任を受けていました。関ケ原の天下分け目の決戦では眞田昌幸、幸村父子は豊臣方にそして兄の信之は徳川方に着きます。どちらが勝っても眞田家の血筋を絶やさないようにという壮絶な決断でした。
 関ケ原の天下分け目の戦い。秀忠軍は上田城攻略に手間取り、肝心要の関ケ原に遅刻してしまいます。
 まさか関ケ原が一日で決着するとは!戦いが終わって「何しとったんや?」と家康に厳しく叱られる秀忠さん。同道していた参謀本多正信が命をかけて許しを乞う。
 この上田城にろう城して秀忠軍を翻弄したのが眞田昌幸、幸村父子です。江戸幕府は後々、敵将眞田幸村を称えることはあっても悪く言うことがありませんでした。さすが戦国武将人気ナンバーワンです。
 往事を偲ばせる松代城址、映画の撮影に頻繁に利用される松代藩文武学校、居並ぶ武家屋敷、今回は眞田宝物館が休館で次回の楽しみとなりました。
<余談その1>
NP0法人「将棋を世界に広める会」理事長の眞田尚裕氏は眞田家の末裔です。
<余談その2>
全国詰将棋大会2012年開催地は長野県に決定しています。今回の旅行は来年の格好の下見旅行となりました。

9.趣味の合わないHさんとの二人旅
 秘湯の旅は通常一人旅なのですが今回はHさんとの二人旅でした。クワガタとかカブト虫が趣味のHさん。秘湯と詰将棋が命の私。Hさんの温泉の入り方は30秒です。その代わり朝は3時に起きてムシ取りに出かけます。
 しきりに私を誘って下さるのですが、寝ぼけて詰将棋を考えていた方がいい。まさに「蓼食う虫も好き好き」趣味の合わない二人の珍道中でした。

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陣屋事件とは何だったのか?

1.陣屋事件をご存知でしょうか?
 昭和27年2月創設されたばかりの王将戦で升田さんが木村名人との対局を拒否した事件です。
 この時すでに升田さんは4勝1敗で木村名人を破り王将獲得します。その内の負けた1局も木村名人の時間切れを升田さんが見逃しての温情があったと言われています。
 現在のタイトル戦は4-1で終了となります。しかし、この当時の王将戦は朝日新聞社の名人戦との差別化のために「差し込み七番勝負」を導入していました。
 通常の七番勝負は先にどちらか4勝すると終了しますが、差し込み七番勝負はタイトルの行方が決まってからもきっちりと七番戦います。しかも3ー0、4ー1というスコアになった場合は勝っている方が香を落として半香戦を戦います。
 この制度の導入に際して議論があったようです。「名人が半香に追い込まれては名人位の権威が問われる」と反対していたのは升田さんでした。一方、時の名人木村さんは「自分は追い込まれることはない」と賛成に回ったと言われています。
 ところが皮肉なことに升田さんに1ー4で追い込まれてしまったのは木村義雄名人でした。木村さんも読みが甘かった?!

2.陣屋旅館で何があったのか?
 そんな名人に香を落として指す歴史的な対局が昭和27年2月18日の王将戦第6局でした。升田さんは<名人位の権威>を思い逡巡していたと思われます。
 升田さんは当日、対局場の鶴巻温泉陣屋旅館に行きます。すでに木村名人一行は到着していて賑やかな談笑が聞こえてきます。玄関先で一人待たされる升田さん。次第に腹が立ってきます。そして別の旅館に引きこもって対局拒否しました。

3.名人戦を巡る朝日毎日の争奪戦
 この背景として一番言われているのは昭和24年に名人戦の主催が毎日新聞から朝日新聞に移ったことでした。名人戦を失った毎日は新棋戦の創設を検討します。王将戦の半香指し込み制度は朝日新聞の名人位を強く意識したものでした。
 朝日と毎日の名人戦主催を巡る抗争はそれこそ「歴史は繰り返す」でつい最近まで何度も続いています。常に将棋連盟との契約金を巡っての争奪です。
 現在は共同開催となっていますが、近い将来再び将棋連盟との契約金を巡ってゴタゴタするに違いありません。日本は歴史を学んでその教訓を生かして行かなければなりません。話がそれましたが、陣屋事件は単発に起こった事件ではなくその背景には様々な棋界を巡る問題が渦巻いていたと思われます。

4.陣屋事件の背景(その1…毎日新聞社の嘱託社員)
 陣屋事件の遠因は昭和23年の高野山の戦。さらに終戦直後に大山さんが大阪毎日新聞社の嘱託社員に指名されたことまで遡らなくてはなりません。
 大山さんが同社の嘱託社員になったのは終戦後すぐのことでした。この役職の話は木見門下の序列からすると一番の兄弟子だった大野源一九段なのでしょうが、すでに木見門下から独立して一家をなしていましたので圏外でした。すると残るは兄弟子の升田さんのはずです。しかし升田さんはまだ戦争で外地にいました。その隙をついたわけでもないのでしょうがどういうわけか大山さんがちゃっかりとその座に着いてしまいました。

5.陣屋事件の背景(その2…大山升田不仲説)
 後に復員した升田さんは口には出さなくても面白い話ではなかったと思われます。宿命のライバルであった升田大山は不仲であったのかどうか?お二人とも亡くなられて久しいですから、真実はわからないのですが、私の推測するところでは圧倒的に力の差があった内弟子時代は升田さんは大山さんにつらくあたったかもしれませんが、大山さんは升田さんを心から尊敬していて実の兄弟のような非常に良い関係であったと思います。
 この大阪毎日新聞の一件は二人の仲が微妙になりはじめたきっかけとなりました。
 また、昭和27年大山さんが名人となって先を越されましたが、升田さんは大山さんをライバルとは認めていなかったのではないかと思います。
 つまり「木村名人から奪い取らなければ本物の名人ではない」「大山君の持っている名人位はいつでも取れる」と。升田さんが大山さんに先を越されたのは健康問題とともに大山さんをどうしてもライバルと認めなかったことに落とし穴があったと思います。

6.陣屋事件の背景(その3…高野山の激闘)
 話は戻りますが、昭和23年2月名人挑戦者を決める高野山の戦い。三番勝負を両対局者が10日間の長期にわたり高野山に泊まり込んで対決しました。1勝1敗からの第三局。升田さんがトン死負けで挑戦者は大山さんになります。この勝負は将棋史上あまりにも有名です。
 当時の主催は毎日新聞でした。対局場の設定で升田さんは体調を理由に暖かい場所を希望していたにもかかわらず、寒さの残る高野山でした。大山さんに勝たせたい毎日新聞が対局場所を高野山に決めたのではないかという疑惑が持ち上がりました。
 対局通知も升田さんには直前まで届いていなかったという話もありました。そもそもその年A級一位は升田さんとすんなり名人挑戦者に決まりのはずがB級一位の大山さんを含めてプレーオフを行なうという制度変更が毎日新聞社主導で決定していました。
 この変更は少なくとも升田さんにとっては面白くなかったはずです。「毎日新聞社がよってたかって大山を応援している」と升田さんには思えたに違いありません。
 不満を抱えた対局場所でしかも一生の不覚とも言える大ポカをしてしまいました。当時升田さんは朝日新聞社の嘱託社員となっていました。丁度その翌年に名人戦の契約金を巡って毎日新聞ともめることになりました。升田さんは「朝日新聞社に鞍替えすべき」と強く発言したと言われています。そして翌昭和24年に名人戦の主催が毎日新聞から朝日新聞に移りました。このような経緯があっての陣屋事件です。

7.60年の歳月を経て
 広瀬王位に羽生さんが挑戦している王位戦は8月22日現在2-2で盛り上がってきました。第六局および第七局は鶴巻温泉は陣屋旅館で行われます。このタイトル戦は羽生さんがタイトル獲得数であの大山名人の80回に並ぶかが注目されています。
 また、9月に開始される王座戦では羽生さんの20連覇の大記録がかかっているのですが、挑戦者に強敵渡辺竜王が名乗り出ました。その王座戦第五局の対局場がこれまた陣屋旅館なのです。
 昭和27年の陣屋事件からすでに60年の歳月が経ちました。その間に陣屋旅館では数多くのタイトル戦を見守ってきました。
 鶴巻温泉は今の住まいから小田急急行で小一時間です。残念ながらロマンスカーは止まりません。歴史的な対局にたまたま同じ沿線に住んでいるのは何かの縁なのかもしれません。

8.その後の陣屋事件
 陣屋事件は将棋界を揺るがす大事件となり、升田さんの処遇を巡って論議が起こりました。当初の将棋連盟の結論は「升田さんの1年間の出場停止、王将位は空位」と厳しいものでしたが、升田派の棋士もファンも黙っていませんでした。
 結局、翌月には木村名人の裁定で「升田さんの連盟復帰」で出場停止は取り消されました。さらに残っていた第七局を平手で行い王将位獲得も認められました。
 陣屋事件の後、その年7月木村名人は大山さんに名人戦で破れ引退します。木村名人は投了の後に「良き後継者を得た」と発言したと伝えられています。
 実質的に木村名人に引導を渡したのは升田さんの王将戦と言っていいでしょう。

9.王将戦差し込み勝負のその後
 しばらくして昭和31年の王将戦で升田さんは時の名人だった大山さんに3連勝でついに半香に追い込み、香落も勝ってしまいました。
 ついに「名人に香を落として勝つ」という升田さんの子供の頃の決意を実現しました。
 その後の王将戦で大山さんが挑戦者の加藤一二三さんや二上達也さんを香落にて勝利していますが、大山さんが名人でした。
 つまり名人に香を落として対局し、しかも勝利するという空前絶後の離れ業は升田さんだけです。
 現在王将戦は香落の制度は廃止になっていますからこの記録は永遠に破られません。それほどまでに「半香差し込み七番勝負」は過酷な制度と思います。
 升田さんは木村名人との香落は「名人位の権威」に思いを走らせ、対局拒否事件を起こすまで思い悩みました。 しかし、大山名人との香落対局ではあっさりと対局しました。やはり、当時の升田さんは大山さんをライバルとは認めていなかったのでしょう。勝って当然の相手という認識だったようです。

10.升田さんの自伝と河口俊彦さんの意見
 名人戦を巡る棋士間の番外争い、将棋界を巡る新聞社の抗争が複雑に絡み合って名人戦移籍や「差し込み七番勝負」の王将戦創設となりました。そういう意味で陣屋事件は単発に起こった事件ではなく将棋界や新聞社の問題点を升田さんが露呈させた事件だったと思います。
 ずっと後に棋士河口俊彦さんは平成2年刊行の「一局の勝負一回の人生」の中で升田さんの行動を「だだをこねた」と表現し、新聞社の問題などは後からの「こじつけ」と言っています。
 ところが、昭和60年刊の朝日文庫升田幸三自伝「名人に香車を引いた男」の中で升田さんは高野山の戦から毎日新聞とのイザコザ、そして陣屋事件までかなり詳細に述べています。つまり、河口さんは升田さんが書いた様々な事情をすべて「こじつけ」と切り捨てたのです。なかなかの勇気ある発言と感じます。(河口さんの著書は升田さんが亡くなる前年に刊行)

11.升田さんの陣屋旅館訪問
 升田さんの自伝によりますと、この陣屋事件の顛末後に升田さんは陣屋旅館をプライベートで訪問、自筆の「強がりが雪に転んでまわり見る」色紙を残しています。
 色紙は陣屋旅館に飾ってあるらしい。(今も飾ってあるかどうか確認してきます)
 升田さんはこの句を「反省の気持ちを込めて・・・」と述懐しています。陣屋旅館は事件後に呼び鈴を付けたとか、従業員を再教育したとか、伝え聞きますが、升田さんの<反省>の言からみますと陣屋旅館は多分にとばっちりを受けたという気がします。
 つまり、升田さんは「対局せずに済ませる理由はないのか・・・」と材料を探し続けて対局場の陣屋まで来てしまったのではないかと思います。

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ジョンケ先生の一周忌

昨夏に亡くなった<ジョンケ>の一周忌に行ってきました。彼は高校のラクビー部で厳しい練習に耐え抜いた仲間でした。
 同じ仲間の4人と奥さんと思い出話に花が咲きました。なぜ彼が<ジョンケ>と言われるようになったのか昔から諸説ありました。高校時代その謂れが知られないまま誰もが彼のことを親しみをこめて<ジョンケ>と呼びました。そして彼は若くして人脈も地縁もない横浜で開業しました。横浜では誰も彼のニックネーム<ジョンケ>を知らないはずでしたが、「<ジョンケ先生>と呼ばれていた」と奥さんからお聞きして笑ってしまいました。
 彼の人となりについては全員の意見が一致しました。無口で自分を主張することはほとんどないが内に秘めたファイトは並々ならぬものがありました。25歳そこそこで自分の力で歯科医院を開業したのは彼の一大決心であるとともにそれを支えた奥さんのご苦労、またそこを見込んでの奥さんへのプロポーズも日頃は自分を出さない彼には一大決心だったと思います。
 彼のポジションはフルバックでした。野球で言えば後ろから全体メンバーを見渡すキャッチャーのようなポジションです。キャプテンではなかったですし、口数も少ない彼でしたが、試合になると、すぐ前のポジションの我々に激励なのか、警告なのか、気合いなのか?厳しい言葉を発していました。そう言えば彼は「裏声のジョンケ」とも呼ばれていました。「何のために俺たちは苦しい練習に耐えてきたんだ!」勝利の執念が人一倍強かったのだと思います。彼のラクビーへの真剣さが伝わってきました。
 表面的にはあまり自己主張しない性格のように見えましたが、どっこい自分をどこまでも貫き通すという人でした。 彼は30数年、歯科医師として見事な一生でした。1年前このブログにジョンケが亡くなったことを実名で掲示しました。しばらくして見知らぬWさんから「突然ですが…」とメールが届きました。当初、知らない女性からですからてっきり迷惑メールと思いました。ところが実は彼の患者さんでした。Wさんは彼が突然いなくなってその動向をインターネットで検索して私にメールで問い合わせしてきたのでした。
 そこには歯医者<ジョンケ先生>への感謝の気持ちが綴られていました。

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七條兼三氏との幻の出会い

1.風流を貫いた男、七条兼三氏
 古い将棋ファンであれば誰もが七條兼三氏の名前を知っています。秋葉原ラジオ会館を設立、秋葉原界隈のビルオーナーとしてまた西東書房の代表として詰将棋関係の作品集や書道の書物を多数刊行しました。
 囲碁将棋の強さはアマチュアの域を超えていました。囲碁将棋ともに七段。昭和55年の職域団体戦では両部門で主将として出場して優勝という逸話もあります。囲碁・将棋のプロが頻繁にラジオ会館に出入りしていたらしい。
 さらに書、詩吟の腕前も超一流、金貨や浮世絵、初版本のコレクターとしても名前が知れ渡っていました。
 七條氏は古き良き日本文化を大切にし、伝え継いで行かなければならないと思っておられたのではないでしょうか?

2.詰将棋での活躍(解答者として)
 詰将棋の専門誌として月刊「詰将棋パラダイス」があります。同誌にはやさしい詰将棋も掲載されていますが「解けるものなら解いてみろ」というような難解作、盤面全体に駒が散らばっているような大作も多い。
 詰将棋を趣味とし、定期購読をしている熱心な読者でも全問正解にチャレンジしている人はほんの一握りではないかと思われます。
 七條さんはそんな難しい詰将棋を昭和42年から3年間連続で全題正解という偉業を達成されています。
 なお、多くの若手プロ棋士や奨励会員、伸び盛りの女流棋士は詰パラを持ち歩いて棋力アップのために活用しているという噂です。アマチュアが作った問題をプロ棋士が実力アップのために解くという構図は他の芸事には見られないかもしれません。

3.詰将棋での活躍(作家として)
 七條氏はその解答力を存分に生かして今度は詰将棋創作の世界で大活躍が始まります。昭和50年代から60年代の活躍は素晴らしい。当時、不可能と思われる困難極まるテーマに果敢に挑戦して実現してしまう力量に詰将棋界は度肝を抜かれました。
 近代将棋誌では半期毎に優秀作品を塚田正夫氏にちなんで「塚田賞」として表彰していました。七條さんの「塚田賞」の受賞回数は実に13回。まさに当時の詰将棋界を代表する作家でした。七條さんは平成元年12月に亡くなられました。その丁度2年後の平成3年に追悼詰将棋作品集「将棋墨酔」が発行されました。

4.詰将棋界への支援
 「詰将棋パラダイス」を昭和25年創刊したのは名古屋の鶴田諸兄氏でした。今では詰将棋全国大会は毎年の恒例行事となりましたが、当初の開催には紆余曲折があったようです。
 昭和37年に第一回大会が名古屋で開催されました。そして第三回は昭和40年5月に上野の七條邸にて豪華に開催されました。鶴田氏は詰将棋専門誌の火を消さないように一途に情熱を捧げた人でした。その鶴田氏を後方から支えたのが七條氏でありました。
 今日の詰将棋全国大会の隆盛は七條氏の功績によるところが大きい。

5.将棋界の支援
 将棋会館は昭和51年に建て替えられました。その当時の将棋連盟会長は塚田正夫さんでした。大山さんが「将棋会館建設委員長」として寄付金の依頼のために各方面を精力的に駆け回った話は有名です。
 さて七條兼三氏と大山名人のエピソードですが、将棋会館の建設に関して七條氏の支援はかなりの金額……であったと思われます。しかも建設中の仮事務所までも七條氏にお世話になったらしい。ところが、竣工パーティへの招待状が七條氏に届かなかったり、仮事務所の撤去に際して挨拶がなかったなどいろいろと不手際もあったらしい。

6.将棋連盟に怒鳴り込み
 その時の不手際かどうか定かではありませんが、七條氏が激怒して将棋連盟に怒鳴り込んだというエピソードもあるようです。まさか日本刀云々はなかったと思いますが、七條さんだけにまことしやかに聞こえてきます。
 七條氏が升田九段と碁を打っているところに大山建設委員長と塚田連盟会長が謝罪に行ったこともあったらしい。平身低頭、謝罪の言葉を繰り返す両巨頭。ニヤニヤしながら碁盤を見つめる升田九段。「ワシャ、知らんでえ~」
 そこで七條氏は自慢の自作の七手詰を詰将棋の名手の塚田さんに見せて「これが解けたら許そうかのう・・・」と。さすがの塚田さん。解けたのにすぐに「解けました」とも言えず、考え込んでしまう演技を続けることに。

7.秋葉原ラジオ会館の建て直し
 さてこの夏、秋葉原ラジオ会館は老朽化のために立て替えられることになりました。そんな二ュースが流れる中、学生時代の旧友M氏が「秋葉原ラジオ会館の七條惇さんを知ってる」と。な、な、なんとそれは七條さんの息子さんに違いないと直感した私はM氏に、この「解けてうれしい詰将棋」を手渡して私が七條兼三氏の崇拝者であることを伝えて欲しいとお願いしました。

8.七條惇氏からの驚きのプレゼント
 M氏と七條惇氏はアメリカンフットボールの取り持つ縁で大いに親交があるらしい。実は私とM氏も学生時代にアメリカンフットボールをしていた仲間なのです。
 しばらくしてM氏は七條惇氏から私に大変なプレゼントを授かってきました。それは七條兼三さんが昭和63年、「近代将棋」に発表した詰将棋で第71期塚田賞を受賞。記念品として贈呈された図面入りの置時計でした。
 その詰将棋は盤面の39枚の駒が解答が進むにつれて消えて行き、4枚の桂馬だけで詰め上がるという構想作品です。

9.ラジオ会館の対局室
 今回建替ることになってしまいましたが、ラジオ会館の社長室のフロアにはタイトル戦が開催できるような立派な対局室と庭園があったとのこと。M氏が感動を伝えてくれました。


10.憧れの人
 憧れの人、七條兼三氏は風流を極め、人を大切にし、そして日本の行く末を案じておられた方と思います。最も身近な七條惇さんから直にお話を伺うことができたら……と楽しみにしています。

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