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将棋の普及について

 将棋連盟会長の米長さんがご自分のホームページで将棋世界誌の販売部数が減少傾向にあったのが反転して昨年8月頃より伸びていると述べています。
 それは近代将棋休刊の影響と断定できると思います。米長さん将棋連盟会長として将棋の普及を命題に掲げています。「ちびっこ倍増計画」を今年の目標としています。しかし、米長さんは将棋世界のことは気にしても近代将棋の休刊は頭になかったようで心もとない。

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徳川家康の詰将棋?大阪城落城

 「徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網」(安倍龍太郎著 集英社新書)なる書物が世に出ました。徳川家康が詰将棋作品集を出版していたのかと一瞬期待したのですが、内容は戦国読物であって詰将棋どころか将棋の話も全く出てきません。徳川家康最後の大仕事は豊臣家を殲滅させること、大阪城落城が<詰め>であったという命名でした。関ヶ原の戦の後、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡するまでの15年間。圧倒的に勝利者であった徳川家康。豊臣秀頼そしてその子までも抹殺してしまう必要があったのかどうか?
 しかし、著者は豊臣家の経済力、西国大名の存在、朝廷との関係、スペインと豊臣家の関係等々を見ると一筋縄ではいかなかったと分析しています。そこで徳川家康は豊臣家との最終的な戦いに備えて大阪城を取り巻く城の建設や改築を大名に急がせたと述べています。そしてその真の狙いは西国大名の経済力の削減であったと。
 大阪夏の陣は<詰将棋>でも大阪城包囲網は<必至>だと思います。つまり、徳川家康は最初からリスクのある詰筋を追うのではなく必死のような安全策として大阪城包囲網を築いたと思うのです。

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十代将軍家治の詰将棋

 徳川家康の詰将棋は残っていませんが、徳川吉宗の孫の十代将軍家治は自作の詰将棋百番「将棋攻格」を残しています。指した将棋の棋譜も残っています。将軍様は<待った>が得意であったという話です。(ずるいわ。将軍様には誰も文句言えません)
 そしてまた絵画や書画も得意であったらしい。将軍在位26年。政(まつりごと)は老中の田沼意次さんに任せておおらかに風流の道を生きた将軍様でした。

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現物支給

 不景気の影響で企業の製品の売れ行きに陰りがあるためでしょうか自社製品を従業員に半強制的に購入させる動きがあるようです。もともと不景気でなくても売りづらい商品は親戚知人に頼み込んで買ってもらうという話はよくきく話です。特に営業マンの力量に依存している業界や会社の体質では陥り易い傾向でしょう。
 労働関係の法律では給与は現金支給でなければならないと定められていて給与を自社製品で払うのは禁じられています。会社の都合で自社製品を強制的に買わせるとしたら現物支給にほかならないと思います。
 不景気だから従業員に押し付けるのではなく「不景気だからこそ不景気でも売れる商品を作る」というスタンスで誇り高き経営をしてもらいたいものです。

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雪国の不景気

 世界同時不況と言われる前から秋田は景気が悪いと言われていました。特に雪深い地方で思うのは冬場をどう乗り切るか?ということです。
 例えばゴルフ場は冬期間はクローズですし、ゴルフ練習場では閑古鳥が鳴く状況でも営業すれば暖房証明など経費がかかりますし、雪に埋まった球は春までそのままらしい。雪国では毎年、乗り来るべき時期が必ず来ます。
 さて何でもかんでも不景気のせいにする傾向もあるようですが、景気のいい時も悪い時もあるわけですから、常日頃からその準備をしておくことが企業としても個人としても大切かと思います。

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朝青龍のガッツポーズ

 初場所の千秋楽でガッツポーズをした朝青龍に批判が集中しました。ガッツポーズとはボクシングのガッツ石松がチャンピオンになった時の勝利の喜びの姿を新聞記者が表現して広まったらしいのですが、もともとの由来はボーリング雑誌で初めて命名されました。
 「他のスポーツとは違う。」「敗者への心がない。」「横綱の品格に欠ける。」などと非難の声。一方「復活のうれしさのあまりでしょう。」と理解を示す声もありました。
 さて「日本の相撲ではガッツポーズは駄目だよ。」と明確に教えていたかどうかという視点はどうなのでしょうか?相撲で勝つことは教えても相撲道を教えていなかったという罪もあるような気がします。
 明確にガッツポーズを禁じているスポーツもあるようです。礼儀を重んじる剣道では試合に勝ってもガッツポーズをすると反則負けらしい。
 将棋界ではガッツポーズはありえません。投了の後に感想戦が定番ですが敗者が口を一言開く前までは勝者はじっと黙っているという暗黙のルールがあります。何事も勝ち負けよりも大切なものがあるということをしっかりと教えるべきかと思います。

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戦国の名物男、前田慶次

学校で習った歴史には出てこなかった人物ですが戦国武将に前田慶次という人がいます。前田利家の長兄利久の養子という立場にいながら信長が「利家を跡継ぎにせいっ!」と指令したために利久と慶次親子は前田家を14年間も離れるという境遇となってしまった人物です。そして生誕については生年がはっきりせず、死去の年も場所も加賀と米沢に残っている資料に食い違いがあり、二説あるという謎の人物です。
 しかしながら、逸話が多く残っています。その人となりは誠に豪快で面白い。赤塚不二夫のギャグ漫画をそのまま実行してきたような人です。14年の後、前田利家が加賀の城主となった頃に前田家に帰参して前田利家の影武者の役を担ったと言われています。
 そして「ワシは利家の影武者じゃあ~」と。(影武者はパラしてしまってはあかんわ)武将でありながら風流な文人。「無苦庵記」「前田慶次道中日記」が残っています。
 そして再び1590年頃、慶次は再び前田家を出て京都に行きます。この時、前田利家の大事にしていた名馬を黙って持ち出したという逸話もあります。関ヶ原の戦いの前には上杉家に仕えることになります。直江兼続との親密な関係、義を重んじる上杉家に惚れ込んでのことでした。
 さてNHKの大河ドラマ「天地人」の原作には前田慶次は登場するのですが、登場人物のキャストを見る限りドラマには出てこないようです。生誕のはっきりしない人物は教科書には載せないという意味もあるのでしょうか?こんな人物こそ伝えていく価値があるように思います。

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五能線旅行記

1.さらば秋田
 この4月に秋田での単身赴任生活にピリオドを打って家族のいる関西に戻ることになりました。かつての勤務地は懐かしく思い起こされるものですが秋田は私にとって格別に懐かしい思い出になるに違いありません。
 秋田を去るに当たってぜひとも行っておきたい所の一つが不老不死温泉でした。そして行きたくて行けなかった所は<ランプの宿青荷温泉><桜で有名な弘前城><青函トンネルを渡っての函館>ぐらいでしょうか?さて文庫本を片手にいそいそと・・・・。

2.30年前の一人旅
 30年前、就職する直前に東北一人旅をしました。秋田~男鹿半島~十和田湖~一関と周遊いたしました。当時石川さゆりさんの<津軽海峡冬景色>が大ヒット。竜飛岬を訪れる人が増加していると地元の人が言っていました。「ここには何にもないのにね」と。
 竜飛岬までの道程でヒッチハイクをして止まってくれたのが偶然にも旅館の若旦那でした。学生の一人旅・・・などと話をしていましたら「半額でいいよ」と立派な旅館に安く泊めてもらったことを記憶しています。

3.五能線の本数
 五能線の本数の少なさは唖然とするほど。2日間の乗り放題の周遊切符を買う時に駅員から「乗り降り自由、2日間乗り放題です!」と。しかし朝8時の列車の後は午後2時まで次の列車がないという少なさですから、一旦降りたらもうどうにもなりません。
 五能線の全線開通は昭和11年。70数年経過しても単線にて非電化。想像ですが全線開通時の方が本数が多かったのではないかと。車社会の発展の影響は大きい。
 宿泊予定の不老不死温泉から2つ先の深浦まで乗りました。深浦町をブラりとした後、戻りの列車に乗るつもりでしたが、歴史民族資料館と太宰治の宿<ふかうら文学館>を見学している間に時間が過ぎて深浦から不老不死まで2駅区間を歩くことに決断しました。
 少々地図の縮尺を甘く見たために1時間前後の目論見が外れて小雪がちらつく中、2時間近く歩くことになってしまいました。中年のヒッチハイカーになるべきかと真剣に考えながらの難行でした。

4.深浦町について
 深浦町はもともと北前船の寄港地として重要な意味を持っていました。北海道と上方を結ぶ北前船は大きな利益になる反面リスクも伴う航海でした。
 青森県出身の太宰治の記念館は県内各地にあります。深浦町の<ふかうら文学館>は旧秋田屋旅館の建物で太宰治が宿泊したと伝えられています。

5.不老不死温泉
 学生の頃は温泉には全く興味がなく当時の五能線の記憶は日本海の荒波に削られた景勝地が延々と続く海岸線の景色でした。
 今回の旅は不老不死温泉がキーポイント。温泉雑誌には夕陽と露天風呂がマッチしたお馴染みの写真が頻繁に登場しています。茶褐色の湯。そして雄大な眺め。やはり写真と実際は迫力が違います。寒い季節でお客さんも少なく露天風呂には私一人。冬の日本海の荒波、チラチラと雪が舞っていました。長距離を歩いた疲れもあっと言う間に吹っ飛びました。

6.不老不死温泉の宿
 秋田から不老不死温泉は車でしたら十分日帰りできる距離です。しかし雪の時期ですから車ではなくJR五能線。そして1泊ということにしました。温泉には期待しても宿には期待していませんでした。
 しかし、宿泊施設もお薦め。HPには案内していないサービスもいろいろと感じました。つまり、お客様を呼び込むためのサービスではなく来たお客様に喜んでもらう姿勢。宿泊したお客様にもう1度来てもらう、口コミで知り合いに来てもらおうという姿勢です。目の前の利益ではなく長い目でみてお客様を定着しようとする姿勢に共感を覚えました。

7.ウエスパ椿山
 翌日も今度はウエスパ椿山駅まで約50分歩くことにしました。この区間の景色は素晴らしい。歩かなければ見逃してしまうところでした。前日の雪模様も一転して晴れ渡り海の青さが眩しい。<一夜明け北前船か春の海>

8.K君の一人旅
 さて話は前夜に戻りますが一人で夕陽が沈むのを露天風呂で感傷にふけっていました。そこに一人の若者が入ってきました。いろいろと話をしていますと彼はこの4月から就職が決まっていて地元の九州宮崎にて働くことになっています。親孝行なんですね。今後は関東以北には行く機会もないので一人旅で<十和田湖><青森><弘前>を周遊中らしい。何と30年前の私と同じでした。
 「内定取消にならなくて良かったね」「私の学生時代は理系は勉強、文系は遊びだったけど今は就職が厳しいから遊んでられない?」などと自分の思い出話を語りつつ、現在の学生事情を探る私でした。
 食事の後、お互い一人旅なので私の部屋にて続きを語らうことになりました。どうやら文系の学生が勉強ばかりでは就職活動に支障がでると大学側が危惧して社会勉強をするように指導する傾向もあるらしい。私の場合はクラブ活動一色でしたが・・・・。
 会社生活に不安を持ちつつ希望に燃えていると語るK君。アルバイトも随分経験してきらしい。また「派遣切り」「内定取消」など厳しい就労状況を切り抜けてきた自信でしょうか。学生アルバイト事情は悪くないらしい。やはり中高年が厳しいということでしょう。

9.若者気質と健康
 不景気の時代。今の若者には欲しいものも我慢して食べたいものも抑えて耐乏生活をするという人が多いらしい。海外旅行には行かず、車の所有も考えない若者が多くなっている。これは特に派遣労働者などに多い傾向かもしれません。
 しかし、粗食(和食)が体にいいと言われていますが、本来の粗食はカップヌードルとは違います。我慢することも覚えつつ、自分の健康を考えて欲しいとこれからの日本を背負っていくK君に期待する私でした。

10.帰路
 五能線の帰路。昨日通ったばかりの駅舎風景。とても昨日のこととは思えない。ずっと昔の出来事のように感じました。

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